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父との話

父に会いに新潟に行ってきました。

 

仕事で挫折したことを父に説明しておきたくて、次に三連休がもらえたら絶対に新潟に行く!と決めていました。

旦那は都合がつかなかったため、わたし単身、留学時代以来初のひとりでの飛行機でした。

 

 

わたしの父は若いうちに妻を亡くしており、まだまだ育ち盛りだったわたしと兄を男手ひとつで育ててくれました。

 

幼いころの家族の記憶は、もう10年以上前の話になるのでいろいろと断片的なところも多いのですが、

父はよく母に内緒でパチンコに行き、つかってはいけないお金に手をつけて母が泣いていたり、

ある日学校から帰ると母が泣いていて、それを兄がなだめており、訊くと「お父さんが家出しちゃった」と。

母は優しく美人で女神のような人でしたが、父に関してはそんな母を傷つける男のように感じていました。

 

そんなこんなをしているうちに母は病気になり、「お母さんとお父さんが離婚するとしたらどっちについてくる?」とどこかで聞いたような質問をされ、涙ながらに母を抱きしめました。

当時夫婦仲がどんなものだったか、わたしたちが眠ってからどのような話し合いがされていたか知る由もありませんでしたが、父と母は離婚することなく、母は亡くなりました。

 

 

当時わたしは小学校卒業を目前に控えており、母親のいないまま中学に入ったわたしは少し悪い友達とつるむようになりました。

家族がそろっている友人に自分の苦しみが分かるわけないと思い、家に帰っても誰もいない寂しさから時間を気にせず遊べる友人関係に救われていました。

 

夜になってからあそびに出かけ、授業も無断で欠席するわたしに対して父は怒りましたが、わたしはまるで聞きませんでした。

 

年頃の時分に母親がいないことは、コンプレックスを増幅させました。

周りの友人は母親と服を買いに行き、母親と友人のような関係を築いたり、相談をしたり、迎えに来てもらったり、そういう話を聞くたびに普通の幸せさえ受けられない自分の環境に嘆きました。

わたしが母に会えるのは夢の中や、母が遺した日記や手紙の中だけでした。

 

修学旅行で沖縄からバスで帰ってくる時に、地元では大雨が降っていました。

バスの中から同級生たちは家族に車で迎えに来てよ、と連絡をしていましたが、わたしには迎えに来てくれる人は誰もいなかったから、泣きながら雨に濡れて帰りました。

惨めで悲しく感じて、心に余裕がなかった。今考えれば友達にでも話せばよかったのに、こじらせたコンプレックスを人に話すだけの気持ちの余裕はありませんでした。

 

 

母が死ぬことは分かっていたのに、現実逃避して会いにいかなかったことから、長い間母への罪悪感に悩まされました。

ある夜眠れなくて、ずっと母のことを考えて後悔していると、リビングの方から父の声がしました。

泣きながら母の名前を呼ぶ声でした。

わたしはそれまで、極端な話、家出してパチンコしてばかりの父が母を病気にしたようなものだと感じていたのですが、その声を聞いた時に一番つらいのが父だということに気がついたのです。

亡くなってから一年も経っていたのに、恥ずかしながら初めて気がついたことでした。

 

 

大学に入ってからもコンプレックスはひどい状態でしたが、努力して同じ門を叩いた人々の存在は心地よく、いろんな人々との出会いの中でわたしの心は和らいでいきました。

 

父との関係が本格的によくなった(と個人的に思っている)のは、わたしの留学先に父が遊びに来てくれた時です。

飛行機で10時間以上、トランジットを繰り返し、英語の通じない国までわたしに会いに来てくれたことが嬉しくて、初めて親孝行ができると思いました。

現地の友人に周遊バスの予約の取り方をきき、田舎まで観光名所を見に行き、ホテルで口聞きをして、観光案内をしました。

当時のわたしは人生で一番タバコを吸っていた時期だったので、父の見ていない隙にタバコを吸いに外を抜け出してはわざわざ会いに来てくれた愛に応えようと思いました。

 

 

その後も父が韓国でお世話になった人に会いにいくというので同行したり、実家にいた時は断っていたようなちょっとした同行に着いていくようになりました。

 

 

そんな折での今回の新潟旅行。

父の生存確認という目的が一番しっくり来ますが、何せ会いに行ってきました。

 

 

「僕は脂の乗ったサバが一番好きや」と言って焼きサバを頼む父。

カレイの食べ方を褒めたら「カレイは任しといて。小学生の頃から得意やねん」と言い綺麗に骨だけ残す父。

砂浜にお宝落ちてるかなと言ったら「降りてみるか」と言い車を停めてくれる父。

お店の人に腰低く愛想よく、喋りかけるタイミングを窺っている父。

 

 

わたしは父のこういう背中を見て育ったんだなと改めて感じました。

 

 

車の中で父は、自分のサラリーマン史を話してくれました。

どこにも受からず、名前を知っている企業を受けなければと思い仏壇屋さんを受けるも、家の宗派とお仏壇の色を聞かれ、「浄土真宗で、仏壇は黒色です」と適当に答えたら「おかしいなあ、浄土真宗は大抵金色なんだがなあ」と言われ落とされ、行く先のなくなった父は実家に呼び戻された。

祖父の薦めにより一年の就職浪人を経て通関士を取得。

新卒で入った物流の会社を四年勤め転職。

以降また別の物流の会社に16年勤めるが、所属部署が悉く統合と消失を繰り返しさまざまな部署を経験する。

営業職でのノルマに耐えられず一度目の逃走。

その後いくつか会社を転々とするも、その中の上司と折り合いが悪く仕事も楽しさが感じられず、妻の体調不良も相まり二度目の逃走。

以降はわたしも覚えているような経歴の話だった。

 

 

子どもの頃はただ逃げ出し、特に説明もなかった父にどういった目を向けていたかは語るまでもないが、その話は今のわたしにあまりにも染み、父への感情移入は今まででは考えることができないほどだった。

 

わたしも大人になり、家族や仕事へのプレッシャーから目を背けたかった父の気持ちがよくわかる。

 

 

亡くなった母への想像は膨らむばかりで、わたしの頭の中をひとりで成熟させたと思う。母の忘れ形見がふとした瞬間に家の中から出てくると、母とわたしに流れるエンパシーを感じて嬉しかった。母の遺した漫画やテープ、小説はいずれもわたしの好きなものだった。

 

父への真剣な思いや感謝の気持ちは直接伝えたことはないし、これからも面と向かって言うことはないと思うが、大変な思いで育ててくれた父が少しでも報われるように、わたしに何ができるか考えたい。

 

 

 

 

二人の素敵なひとが遺してくれた素敵なわたしで居たいものだね♡

 

 

 

bor pen nyang👌🏽

 

 

 

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